「弁護士バッチをつけた活動家」執筆再開

 2014年1月、旬報社から、「弁護士バッチをつけた活動家」というタイトルの書籍の執筆を依頼された。暁法律事務所のホームページを見てくださった編集者の方からのありがたい依頼だった。私の大学時代の活動から、司法試験受験時代、そして弁護士になってからの活動や担当した事件などについて書く予定だった。
 第1章の大学時代と卒業後の活動のところまで書いたところで挫折してしまった。第2章の司法試験受験時代、第3章の弁護士時代のところは全く手つかずである。
 このままでは永久にお蔵入りになると思い、2017年5月9日にフェイスブックで執筆再開宣言をしたが、実際に執筆再開はできなかった。今日、やっと、第2章の最初のところを書いたので、ここに掲載する。今年中に脱稿する決意である。
 ご意見、歓迎します。

第2章 司法試験受験と司法修習
1 司法試験受験を決意
◎「弁護士バッチをつけた活動家になればいい」
 統一労評は、労働裁判・労働委員会の代理人を東京協立法律事務所にお願いしていた。特に、同事務所の安養寺龍彦弁護士にお願いすることが多く、安養寺弁護士は統一労評の顧問弁護士、いや、それ以上の存在だった。安養寺弁護士は、統一労評の事件を手弁当で引き受けてくれた。統一労評の組合員向けの労働者学校で労働法の講義をしてくれて、労働基本権の意義を法律論だけでなく、労働運動の歴史上から教えてくれた。安養寺弁護士は国労弁護団や総評弁護団でも活躍しており、国鉄が分割・民営化された1987年頃は激務だったと思うが、統一労評の事件に献身的に取り組んでくれていた。
 1988年、その安養寺弁護士が、統一労評の労働委員会事件の審問中に倒れた。病床の安養寺弁護士は、統一労評の幹部に、「僕は、もう労働事件はできないかもしれないから、統一労評の活動家の中から弁護士を育ててください。」と言ったとのことだった。私は、統一労評の役員の会議でその話を聞いた。会議で、誰かに「指宿君。やってくれ。」と言われたが、ピンとこなかった。
 私は、「一活動家として生きていきたい。」と思っていた。元々、小説家になりたいと思っていたが、その志望は捨てて、労働運動等の闘いにより社会を変革するために生きていこうと決意していた。急に、弁護士と言われても受け入れにくいし、また、周りに弁護士志望者もおらず、実感がわかなかった。また、弁護士というと権威的で、資本主義の体制内的な職業というイメージがあり、今さら、そういう職業につくことには抵抗があった。
 統一労評の活動家仲間にそういう気持ちを伝えると、「弁護士になっても、ならなくても、活動家としての志は変わらないはず。弁護士バッチをつけた活動家になればいいでしょう。」と言われた。なるほど、そうだなと思い、よし、やろうと決意した。司法試験が難しそうだとか、時間がかかるかもしれないとか、そういうことは全く考えなかった。そういう基礎知識はほとんど持っていなかった。司法試験予備校のパンフレットなどを集めると、しっかり受験勉強をすれば、2年で受かる、というようなことが書いてあったので、2年くらいで合格しようと思っていた。

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