中国残留婦人・田中松江さんを悼む(南海日日新聞2012年8月6日)

2012-12-28

中国残留婦人・田中松枝さんを悼む(南海日日新聞2012年8月6日・榮麻紀子記者)

沖永良部出身の中国残留婦人・田中松枝さんの逝去を悼む

2012年8月4日               弁護士 指宿昭一

 奄美・沖永良部島の和泊町古里(ふるさと)出身の元中国残留婦人・田中松枝と初めてお会いしたのは、2004年8月15日、中国残留日本人たちが、「反戦・平和」と「中国帰国社問題の全面解決」を掲げて開催した集会の会場だった。

当時、田中さんは79歳。「私の父も奄美出身なんですよ」と言うと、「イラブ(沖永良部)が懐かしい」と繰り返していた。

 鹿児島県からは、満蒙開拓団3432人が送り出されており、その多くが奄美諸島出身者で占められている。鹿児島県は、1888年から1940年まで「奄美独立予算」制度を施行し、奄美諸島の産業基盤整備を回避し、その経済発展を遅らせ、その末期には「ソテツ地獄」と言われる窮乏状況を作りだした。窮乏化した人々は、テニアンなどの南洋諸島や「満州」への移住に活路を見いだそうとした。鹿児島県は、特に奄美諸島からの開拓団を積極的に駆り集めた。

 田中さんは、開拓団員として中国に渡ったのではない。貧しい農家の一人娘として1925年(大正14年)に生まれ、母と2人きりで暮らしていたが、17歳の頃に母が亡くなり、神戸に働きに出た。病院で見習いとして働いていたが、正式な就職の口はなく、空襲も激しくなったので、知り合いを頼って、1945年1月に「満州」の大連に渡航し、金州の日本企業の社員の家で家事手伝いとして働いた。沖永良部でも神戸でも大連でも、給料というものは貰ったことがない。「食べさせてもらうだけ。それでも、沖永良部では青年学校に行かせてもらい、神戸では小遣いが貰えたから、幸せだった」と言っていた。

 敗戦後に大連に戻ったが、食べる物がなく、生活のために中国人・周順煥さんと結婚した。周さんは、貧しい農家の次男で、当時、山から採ってきた花を売って暮らしていた。しかし、周さんは半年後に人民解放軍に入って家を出てしまい、1951年まで戻って来なかった。その間に長男が生まれるが、生活は困窮した。「子供をおぶって、乞食をして回ったの」と言った。

 夫が戻ってからは、大連の建築会社に就職して、雑役の仕事をする。「人に後ろ指を指されないように人一倍働いた。『日本の鬼』と言われても、日本人の恥にならないように」。

 日中国交回復後、残留邦人の一時的な里帰りができるようになり、夢にまで見た故郷の沖永良部に1975年7月に里帰りをすることができた。しかし、当時、政府は親族が身元引受人にならなければ帰国は認めなかった。親族に身元引受人を頼める人がおらず、「毎日、故郷を想って泣いていました」。その後、政府が非親族の身元引受を認めたので、日本の支援者に身元引受を頼んで、1986年10月14日に漸く日本へ帰国できた。61歳になっていた。もう、日本で就職して働くことは出来ず、生活保護を貰って暮らしている。田中さんは、「もう十年早く帰国できれば、日本で働くことができたのに」と残念がっていた。

 2005年4月26日、田中さんを含む東京・埼玉の中国残留婦人達13人は、さいたま地方裁判所に、日本政府の戦争責任、戦後処理責任を問う国賠訴訟を提起した。当時、全国の中国残留孤児(敗戦時に13歳未満だった者を「孤児」という)が同様の訴訟を提起しており、それと共に、中国残留婦人の救済を求めるための訴訟であった。

私は、当時、司法試験受験生であったが、裁判の傍聴はもちろん、弁護団会議に出席し、原告からの聞き取り調査を行う等の支援活動を行った。原告は更に5人を加えて18人になったが、訴訟の途中でお一人が亡くなった。田中さんは、原告の中でも最高齢の方だったが、毎回の裁判に元気よく出廷していた。裁判を通じて、戦争により「満州」に日本人を送り出し、敗戦後も放置した国の責任を追及すること、そして、子や孫たちの世代のために、二度と戦争を起こさないことが田中さんが裁判を闘う原動力になっていたのだろう。

この裁判は、2007年秋の通常国会で、中国残留邦人に対する支援法が成立したことにより取り下げることになった。私は、同年9月に弁護士登録し、この裁判の最後の口頭弁論期日(12月7日)に、初めて弁護士として出廷し、原告団長の最後の意見陳述を助けた。

田中さんは、私が弁護士になったことを、本当に喜んでくれ、お祝いまでいただいた。私が「いつまでもお元気で。」と言うと、田中さんは、「私は、百歳まで大丈夫。」と言って笑っていた。私は、その言葉を、その通り信じていた。

先日、田中さんが、本年2月に、亡くなったことを聞き、信じられない思いだ。87歳だったのだろうか。まだまだ、長生きして、私たちに、戦争の戦後の苦労を語ってもらいたかった。

以上

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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